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晴さんのハイセンスビーズ。
信じられないくらい詰まっていて2500円✖️2!信じられない、、、
徳を積むとか、
善行をするとか、
基本、この世は見えない世界までもが
取引だ。
あれをすればこれを与えますよ
という
取引、獲得、所有の「考え方」「信念」が、よく見れば隅々まで行き渡っている。
まさにこの世は惜しみなく奪うのだ。
そして奪ったあとも平安はない。それを守らねばまた自分がしたように「奪われる」と信じるからだ。
深い憎悪を赦すと、
全然関係ないところの憎悪が綺麗に消えることがある。
わたしは動物が手足を舐める音が大嫌いなのだが、
今日
何も感じなかった。
ビックリした。
わたしの憎悪はちゃんと癒されているのだ。
そして、よくわかった。
「気持ち悪い」
「嫌だ」
という、「苦痛の知覚」自体が
憎悪なのだ。
だから、イエスは磔でも苦しまなかった。
イエスの心は完璧に癒されていたからだ。
別に進んで苦痛を探す必要はない(そもそも、取り消されるべきものはちゃんと聖霊がひとつひとつ運んでくれる)
けれど、
こうしてみると
嫌な人
嫌なこと自体が、多大な贈り物を秘めているのだ。
だから、心が完璧に癒されていないのに、
好きなことだけを無理に収縮したら、、
多分、無意識の抑圧した罪悪感が耐えきれず「ドカン!」するだろう。
だから、お金持ちは寄付をしたり、こだわらずにお金を流したり、あげたりして、先に罪悪感を癒しているのだ。
お金持ちはたくさん使うというが、
あれは、使うことで浄化をしているのだ、、
ダムの水だって、少しずつ流れ込み、少しずつ放出しているから、あんなに大量の水が溜まっていても腐らないのである。
あれがどこにも流れなかったら、あの量の水が腐ったら大変だ。
だから、小さなことでも、ひとつずつ、聖霊に差し出して、照らしてもらったほうが
「ドカン!」しづらいのだ。
ていうか、結局「わたしの」罪悪感が投影されているのがこの世界なのだから、、
どの憎悪をとり消そうが、自分の心を癒すことになるのだ。
というわけで、
好き嫌いの「嫌い」が憎悪な以上、
嫌いを浄化していくにつれ、
当然、ありのままの姿の「好き」「愛してる」だけが
世界に浮かぶはずなのだ。
だから、心を見つめる訓練のないまま、好き嫌いの好きだけを取っていけば、
それはつまりわたしの心の分離を深め、心を引き裂くことになり、自分を傷つけることになるのだ。
その「反動」が、罪悪感ドカン!なのかもしれない。
多分、地震も同じ原理だ。
天気だって、わたしたちの投影だ。
だからこそ、心を癒せば世界が穏やかになるのだ。